東溪寺由緒
一.宗 旨 曹洞宗
一.本 尊 釈迦牟尼佛
脇侍 摩訶迦葉尊者・阿難陀尊者
一.大本山 𠮷祥山永平寺(福井県吉田郡)
諸獄山總持寺(神奈川県横浜市)
一.唱 名 南無釈迦牟尼佛
当寺は、後花園天皇の寛正元(1460)年、群馬県群馬郡白郷井村(現渋川市)雙林寺開山の月江正文(げっこうしょうぶん)大和尚の弟子、月叟庄茂(げっそうしょうも)大和尚の開山で、初め遠田郡(現大崎市沼部)大沢百々(どうどう)に、大崎家の臣百々城(鶴舘)主百々左京亮隆元の牌寺として建立されました。
地勢は、東には高山百峰連立し、紫雲を帯びて数十丈屹立し、西には沼水満々とた々え、南北万畝の幽谷、谷地田辺に接続して郡内第一の絶景でありました。それ故、該景を模して山号を百峰山と号し、寺号を東溪寺と称しましたが天正十八(1590)年、大崎家滅亡し、百々氏も没落の後、荒廃すること百年、元禄四(1692)年、当時十三世無絶円智大和尚の代に、大崎市田尻の現在の場所に移転しました。
ここで特筆すべき点は、一つは元禄年間の仏殿・庫裡の建立にあたり特定の檀越家の手に依らないで一般民衆の信仰の力の結集に依って成就されたということ。もう一つは、この移転の際、当寺住職十三世無絶円智大和尚が、ご本寺(本家寺)とご開山を変更したことであります。ちょうどこの頃は幕府も各寺院も中央集権的に統制がとられている時代であったので雙林寺末も冷松寺が統べる形となり、冷松寺三世大初全甫打和尚が勧請開山にあおがれ、冷松寺末寺(分家寺)の形を整え、月叟庄茂大和尚を二世とし、開山以来十一世までが一代ずつずれて無絶大和尚が十三世となり、後世正当三百十九年(2010年現在)、法燈名明々として、受け継がれている寺であります。(田尻町史より)
昭和五十二年六月の宮城県沖地震被災を契機に、三百年以上を経た前諸堂から、総檀信徒の皆様のお力により、昭和五十七年、二十九世天暁(宮崎)智道大和尚の代に、現在の諸堂になりました。
東溪寺では、常日頃から、檀家や地域の人々との絆を大切に育んでいる。行事も密に行われ、特にお盆の時期にはお墓全部に蝋燭を灯し、露天を設け、また、東北弁の落語会を開くなど、気軽な交流の場づくりに尽力しています。ふれあいを通して、地域の人々が明るく、仲よく生きていく、そのことの大切さを伝えることに努めています。
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